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卒業文集 作文

子育てのすすめ【ちゃお シニア映画ファン】

やさしいお母さんになれる子育てヒント

子育てについて弟が本を書きました。 結構面白かったので、ご紹介したくなりました。

身内ですからひいきしています<大笑い> でも読むに耐えると思っています。 

   ある大会社の重役さんから批評いただいたそうです。
 
「児童心理学者か小児科の先生か、はたまた教育関係の仕事?・・・

その何れ にも属さず、しかも生協のサラリーマン 生活からの転進で、幼児から大人になっていく過程、妊娠から出産にいたる女心理 に至るまで、単に勉強するだけでは得られない本質を、物の見事に体得していることは、恐らく本人にも気がついていなかった潜在した天才的能力がスイミング・乗馬クラブの経営を通じて顕在化したものだと思う。」


「今の社会情勢から起きる親子に絡む凶悪事件の分析も実に見事!

それに対応するマニュアル化も見事!」 私も身内ですが現実的な考えかたに賛同しています。


少し目次から 『第1章 やさしいお母さんになれる(スイミングクラブ3つの詐欺/子どもが感じる大人の暴力/子どもの発達段階と理解力/両足ジャンプが始まってからの友だち作り/お父さんの育児責任)/第2章 心理分析に学ぶ子育て論(「行動の記録」という心理分析/タイプ別への対処の工夫/親子分析の事例)/第3章 大競争時代に立ち向かう子育て(しつけより親子喧嘩を/良い子の意味の変化/これからはデフレの大競争社会/「学校第一」の子育て観の見直しを) 』 では身内の宣伝を
 

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卒業文集 作文

卒業文集 昭和20年代【ちゃお シニア映画ファン】

卒業作文 私の昭和22年給食のこと


卒業文集から私の小学校1年生の給食のことを思い出しました。 給食22年 左図が私たちが始めて目にした学校給食らしいのですが、左にあるトマトシチューはなかったと思います。 都会にはこんな献立が出ていたのでしょうか、脱脂粉乳の記憶しかありません。

そして器はアルマイトといって、アルミとなんかが混じった食器だと記憶があります。

梅干を置いたりしておくと穴が開いてしまうそんな器だと記憶があります。もう少し学校給食歴史をおさらいしましょう。
 


つまり始まりは、占領軍自身でなく、ララ(アジア救済公認団体)がテストして、その後全国すべての学校に均一の給食を行うことになりました。

昭和25年からもう一歩進んだ給食になっていくのですが、そのことは作文の進行につれて書いていきたいと思います。 とにかく大半の、私たちの同級生は食べられることは本当に良かった。

とにかく遊びで走り回る年齢で、食べられないのは苦痛以外何者でもなく、食べられるものなら何でも食べました。 一番かんたんで、どこにでもある食べ物としてスカンポとか何とか呼んでいたのですが、要するにイタドリ(春の雑草)で、折るとぽかんと言う音がしてその皮をむいて食べました。
 
すっぱくて水っぽい植物、今でも春にはどこにでも芽を出します、おなかが張るような食べ物ではありませんが、結構足しにはなりました。

また、どぶにはドジョウがいて、アカムシ(イトミミズ)をえさとして育っていたのでしょう、泥のままつかまえて上の少しきれいな水でさらさらと洗うと、そのまま生で食べたこともあります。

すごいことです、糸ミミズはトイレの便槽やどぶに発生する汚泥や汚物を食べて生きているのですから、それを食べるドジョウをまた子供の私が食べてしまったのです。

本当によく病気にならなかったものですね。

勿論下痢や何かはしょっちゅうありましたが、深刻な病気などになったことはありませんでした。 こんな食状況ですから、腸内にはさまざまな虫,回虫やギョウチュウと共生してました。

その話は後ほど作文とともにご紹介いたします。

この年昭和22年は終戦から1年ちょっとしかたっていず、すごい衛生状態でした。

これから以後、このおなかの虫たちとの戦いになります。


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卒業文集 作文

作文 三丁目の夕日【ちゃお シニア映画ファン】

少年時代の思い出作文 と三丁目の夕日

三丁目の夕日が心を少年時代に引き込みました。
 
ALWAYSとは「いつものように」とか「ずっと永久に」などの意味を含んだ言葉です。

三丁目の夕日のラストで鈴木オートの親子が夕日を見る場面があります。
 
夕日がとてもきれいだと見続ける両親に、息子の一平が「夕日は、今日だけでなく明日も、そして50年たってもきれいなもの」 との言葉で第1作が終ります。
 
そんな叙情のとらえ方を、私は昭和ロマンと呼びたいのです。

三丁目の夕日で芥川賞、芥川竜之介が主題になっていました。 吉岡秀隆ふんする茶川龍之介を見ているうちに自分の子供時代を鮮やかに思い出したのです。 ちょっとあつかましいのですが作文を淳之介君のように書いてみました。
 
昭和30年代でなく、昭和20年戦後まもなくのことです 龍之介のトロッコの一部「小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。

良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を―といったところが、唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。」(芥川龍之介 トロッコより)


私の思い出体験ー こんな田舎に鉄道を敷くために、線路工事の工夫さんがトロッコを押しながら少しずつ線路を敷設して、その状態などをチェックしていたんでしょう。

龍之介の主人公良平と同じように、トロッコを押させてもらうのがなんとも嬉しく、誇らしく思えたんです。平坦な場所になるとトロッコに乗せてくれます、時間を忘れて押しては乗りを繰り返して、終点に着きました。

工夫さんたちの工事小屋なんです、それは自宅から数キロ(当時1里と言っていましたね)の小野谷と言う峠でしたがそこに着くと工夫のおじさんが「ごくろうさん、はよ帰らな日が暮れるで」と言うんです。
 
私としてはその人たちも駅まで帰るものだとばかり思っていたので、びっくりしてしまいました。 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」  良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。
良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。(龍之介 トロッコより)


もう本当に暮れかけていました。 連れて帰ってとも言えず、心細いまま黙って枕木につまずいたりしながら走り出しました。どんどん暮れていきます、多分秋でした。
 
田んぼで籾殻を焼く煙があちらこちらでたなびいています、夕暮れはそれこそつるべ落としどんどん暗くなってきて、大声で泣きながら走りました。

1時間はかかる距離です、走ると言っても石ころと枕木ですから、つめから血が出るは、転ぶやで散々でしたが、痛いとはちっとも思いません、それより暗くなる恐怖がどんどん膨らんで、怪獣かなんかが襲ってくるという錯覚と言うより現実感が充満したのを今も思い出します。
 
このときの記憶で一番心で観たものは、やっと自宅に近くなって「山上」という集落の上に来た時、下の集落が何時もの風景でただ夕暮れ迫る風景、田んぼで野焼きする煙が上に昇らずサアーっと横にたなびく煙の風景でした。
 
「サアーっと」横に流れる不思議に美しい煙を見た初めての経験でした。 転んで傷だらけ、爪もはがれて血だらけ、転んで破れた衣類など何の記憶もありません。

後で母親や兄弟たちが、同情どころか「何であほなことをしたのか」「どんなに心配したのか」そんな言葉でした。 でも今日でも覚えているのは、あのときの心細さと、煙が上にだけ行かない煙を下に見ればすごいきれいなもの、それは記憶というより目の底に今でも焼きついています。

突然思い出した、個人的な記憶をあつかましくも芥川龍之介の小説を引き合いに出して書いてしまいました。でも本当に、トロッコの良平は自分自身だと思ったのです。

だから多めに見てお許しください。

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タグ:三丁目

卒業文集 作文

仰げば尊し尊し【ちゃお シニア映画ファン】

仰げば尊し尊し 前回文集からの続き

それでは私たちの町はどんなことがあったのでしょう。前記した作文のほかに、昭和57年同窓会にみんなに配られた同窓会誌「たつみ 再会号」幹事たちの座談会「俺たちの少年時代」を抜粋してみます。

たぶん入学して間もないころに記憶を話している部分でしょう

「最初に小学校のことを思い出すと、ウーン1年生のとき、二宮金次郎があって、玄関の右側で、あっこは大切な場所やった。」

「そや、それはな、もともと御神影がはいってたんや、御神影というのは天皇の写真でそのやかたがあって、それをくだいて二宮金次郎建てたんや。」

「その跡に温度計やら気象観測のもんやら一緒に大事なもの入れたった。それでその時分でもあそこは入るなということやったぜ。」

「けど、進駐軍に解体されたんやろ」

「それでも、周りの生垣は残ってて入るないうことやった」 (一同 深くうなずく)

「昭和22・3年ころやな」「それと1年生のとき、机が習字のできるように硯蓋がついていた」

「あれは、ずーとついとったぜ、2人並んでその間に硯がついていた」

「その時、自分の隣にいた女の子知ってる。あのとき始めて男と女を並ばせたんと違うの、それまではそんなことなかったと思うけど、君覚えてる?」

「ウーン、覚えてない、けどきっと最初やで近所の子やで」

「そう、でもこれくらい印象的なことやのに覚えてないなあ(みんな少し考える) ただ俺一番覚えてるには、たまたま1組、2組、3組に分かれただけやのに、クラス同士でよう廊下でケンカしてたで」

「あぁそや、それはそれぞれの組に偉いボスがおった。それで対抗していくクラス意識があったみたいや、今はないかも知れんけど。」

上記の座談会と作文が当時の1年生の状況を生き生き伝えてくれます。作文を見ると、
 
「戦争が終わったときだったので、学用品がたくさんなかったのでお父さんにかばんを作ってもらい、ぞうりぶくろはお母さんにつくってもらい、なにも今のような皮のかばんやぞうりぶくろはあたらなかったので、僕達の時はお父さんやお母さんは大変困られたと思います。」
 
「戦争が終わったときだったので」は戦争の中身より、ものがなくて親が苦労したなどという戦後の子供の感想です。ほかの作文にも、かばんやら筆箱(布製)履物(ぞうり、下駄)などを親が作ってくれたことを書いています。ものがないことがとにかく印象に残ったんでしょう。

 ほかには、「ランドセルを枕元においてねどこにはいった」

そして興奮して眠れなかったとの作文がありますが、ほんの少しの恵まれた仲間でした。私にはランドセルがなかったと記憶しています。


 この年、1年生の特徴はなんと言っても学校給食が始まったことでしょう。前記の作文には、給食について2人が違った印象を書いています 「一年生から給食があってお母さんらがくばって下さった。

休みの時早く学校になってほしいとおもった。」
「ミルクの給食が初まった。私は、ミルクが大きらいだった」
ほかにも「あたたかい給食がよばれる(*いただけるのは)のはたいへんうれしくおもいます。」
「給食は一しゅうかんにいっぺんおかずをして下さったのです。ぼくは家が近かいので持って帰って食べたりしていました。」

給食に関して書いている友達がいます。 はっきりいってそんなおいしいものではなかった、特にミルク(脱脂粉乳を溶かした)はもろもろしたかすが浮かんだりして飲みにくかったのを覚えています。

それでも、とにかく腹をすかしていましたので、食べられるだけで本当に嬉しかったのでした。
 
「休みのとき早く学校になって欲しい」とは切実な思いなのです。

学校なら何とか一食は食べれる、そんな貧しさを抱えた人が沢山いたのです、また 「給食は一しゅうかんにいっぺんおかずをして下さったのです。

ぼくは家が近かいので持って帰って食べたりしていました。」要するに一度に食べてしまうのが惜しいので、残しておいて持って帰って食べたのでした。
 
ただ、2年生くらいから、味噌汁とミルクを混ぜた給食は、これには本当に参りました、私は味噌汁のまめが残ったものが大嫌いだったことと、その味のなんともいいがたいまずさ、これには閉口いたしました。

では当時の学校給食がどうして決められていたのか、すこし見てみます。先日新聞で見たのですが、占領軍(アメリカ)が日本の子供のために食料物資を何にするか議論があったそうです。

アメリカの提供しようとしたのは、とうもろこしの粉だったか、麦だったか記憶がないのですが、今の厚生省と文部科学省ですか、その諮問機関、大学の先生やら医療関係者が協議をして、そのお一人がとにかく脱脂粉乳を主張して決まったそうです。

ココから私の世代が始まりました。


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卒業文集 作文

卒業文集 給食【ちゃおシニア映画ファン】

この年、1年生の特徴はなんと言っても学校給食が始まったことでしょう。

前記の作文には、給食について2人が違った印象を書いています
 
「一年生から給食があってお母さんらがくばって下さった。休みの時早く学校になってほしいとおもった。」「ミルクの給食が初まった。私は、ミルクが大きらいだった」
 
ほかにも「あたたかい給食がよばれる(*いただけるのは)のはたいへんうれしくおもいます。」

「給食は一しゅうかんにいっぺんおかずをして下さったのです。ぼくは家が近かいので持って帰って食べたりしていました。」

給食に関して書いている友達がいます。 はっきりいってそんなおいしいものではなかった、
特にミルク(脱脂粉乳を溶かした)はもろもろしたかすが浮かんだりして飲みにくかったのを覚えています。

それでも、とにかく腹をすかしていましたので、食べられるだけで本当に嬉しかったのでした。 「休みのとき早く学校になって欲しい」とは切実な思いなのです。


学校なら何とか一食は食べれる、そんな貧しさを抱えた人が沢山いたのです、

また 「給食は一しゅうかんにいっぺんおかずをして下さったのです。ぼくは家が近かいので持って帰って食べたりしていました。」要するに一度に食べてしまうのが惜しいので、残しておいて持って帰って食べたのでした。
 
ただ、2年生くらいから、味噌汁とミルクを混ぜた給食は、これには本当に参りました、私は味噌汁のまめが残ったものが大嫌いだったことと、その味のなんともいいがたいまずさ、これには閉口いたしました。

では当時の学校給食がどうして決められていたのか、すこし見てみます。

先日新聞で見たのですが、占領軍(アメリカ)が日本の子供のために食料物資を何にするか議論があったそうです。 アメリカの提供しようとしたのは、とうもろこしの粉だったか、麦だったか記憶がないのですが、今の厚生省と文部科学省ですか、その諮問機関、大学の先生やら医療関係者が協議をして、そのお一人がとにかく脱脂粉乳を主張して決まったそうです。 ココから私の世代が始まりました。


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卒業文集昭和20年代【ちゃおシニア映画ファン】

仰げば尊し尊し 前回文集からの続き

それでは私たちの町はどんなことがあったのでしょう。

前記した作文のほかに、昭和57年同窓会にみんなに配られた同窓会誌「たつみ 再会号」幹事たちの座談会「俺たちの少年時代」を抜粋してみます。
 
たぶん入学して間もないころに記憶を話している部分でしょう

「最初に小学校のことを思い出すと、ウーン1年生のとき、二宮金次郎があって、玄関の右側で、あっこは大切な場所やった。」「そや、それはな、もともと御神影がはいってたんや、御神影というのは天皇の写真でそのやかたがあって、それをくだいて二宮金次郎建てたんや。」

「その跡に温度計やら気象観測のもんやら一緒に大事なもの入れたった。それでその時分でもあそこは入るなということやったぜ。」「けど、進駐軍に解体されたんやろ」

「それでも、周りの生垣は残ってて入るないうことやった」 (一同 深くうなずく)

「昭和22・3年ころやな」「それと1年生のとき、机が習字のできるように硯蓋がついていた」

「あれは、ずーとついとったぜ、2人並んでその間に硯がついていた」

「その時、自分の隣にいた女の子知ってる。あのとき始めて男と女を並ばせたんと違うの、それまではそんなことなかったと思うけど、君覚えてる?」

「ウーン、覚えてない、けどきっと最初やで近所の子やで」

「そう、でもこれくらい印象的なことやのに覚えてないなあ(みんな少し考える) ただ俺一番覚えてるには、たまたま1組、2組、3組に分かれただけやのに、クラス同士でよう廊下でケンカしてたで」

「あぁそや、それはそれぞれの組に偉いボスがおった。それで対抗していくクラス意識があったみたいや、今はないかも知れんけど。」

上記の座談会と作文が当時の1年生の状況を生き生き伝えてくれます。

作文を見ると、 「戦争が終わったときだったので、学用品がたくさんなかったのでお父さんにかばんを作ってもらい、ぞうりぶくろはお母さんにつくってもらい、なにも今のような皮のかばんやぞうりぶくろはあたらなかったので、僕達の時はお父さんやお母さんは大変困られたと思います。」

「戦争が終わったときだったので」は戦争の中身より、ものがなくて親が苦労したなどという戦後の子供の感想です。ほかの作文にも、かばんやら筆箱(布製)履物(ぞうり、下駄)などを親が作ってくれたことを書いています。ものがないことがとにかく印象に残ったんでしょう。

 ほかには、「ランドセルを枕元においてねどこにはいった」そして興奮して眠れなかったとの作文がありますが、ほんの少しの恵まれた仲間でした。私にはランドセルがなかったと記憶しています。



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